
医師
市川 峰大
「最近、あの若手社員の様子が少し気になる」
そんな違和感を抱いたことはないでしょうか。
欠勤や遅刻が増えているわけでも、業務を放棄しているわけでもない。
それでも、以前と比べて発言が減り、反応が鈍くなり、どこか覇気がない。
任せた仕事はこなしているものの、明らかにパフォーマンスが落ちている。
一方で本人に声をかけても、「特に問題はありません」と返ってくる。
産業医として多くの職場を見ていると、このわずかな変化が、その後のメンタル不調や退職につながっていくケースを何度も経験します。不調は突然起こるものではなく、徐々に進行するものです。この初期段階で気づけるかどうかが、その後の経過を大きく左右します。
本記事では、「静かな退職」とも重なるこの状態に着目し、産業医の視点から意欲低下の初期サインと、企業が取るべき対応を整理します。
近年、「静かな退職(quiet quitting)」という言葉が注目を集めています。
これは文字通り「仕事を辞める」という意味ではなく、会社を辞めずに在籍し続けながら、必要最低限の業務のみをこなし、心理的に仕事から切り離されている状態を指します(出典※1)。
もともとは海外の働き方に関する議論の中で広まった概念で、「求められている最低限の業務はこなすが、それ以上はやらない」「仕事に過度な意味や成長を求めない」といったスタンスを表現する言葉として使われてきました。
ただし、日本の職場において見られる「静かな退職」は、ややニュアンスが異なります。
単なる働き方の選択というよりも、意欲低下やエンゲージメントの低下が背景にあるケースが少なくありません。
例えば、
こうした変化は、単純に「やる気がない」というよりも、仕事との心理的なつながりが弱まっている状態と捉える方が適切です。
ここで重要なのは、「静かな退職」と「実際の退職」はまったく異なるという点です。退職の場合は、組織から人材が明確に離れていきますが、静かな退職では、社員は組織に残り続けるため、表面的には問題が見えにくいのが特徴です。しかし実態としては、
といった形で、組織全体にじわじわと影響を及ぼしていきます。言い換えれば、静かな退職とは「会社にはいるが、心はすでに離れ始めている状態」です。
この段階は、メンタル不調や本格的な退職に至る前の“移行期”とも言えます。だからこそ、産業医や人事、管理職がこの状態に気づけるかどうかが、その後の人材定着や組織の健全性に大きく関わってきます。
若手社員の意欲低下は、単一の要因で説明できるものではありません。個人の内面的な問題として捉えられがちですが、実際には「個人要因」と「職場環境」が重なり合って生じる現象です。
入社当初は「早く一人前になりたい」「スキルを身につけたい」といった意欲を持っていても、日々の業務がルーティン化し、自分の成長が見えにくくなると、徐々にモチベーションは低下していきます。
特に若手世代は、入社前に抱いていた仕事のイメージやキャリアへの期待が強い傾向があります。その期待と現実の業務内容や評価との間にズレがあると、「思っていたのと違う」という感覚が積み重なり、仕事への関与度が下がっていきます。
こうした状態は、明確な不満として表出するとは限らず、むしろ「なんとなくやる気が出ない」「頑張る意味がわからない」といった、言語化しにくい感覚として現れることが多いのが特徴です。
一方で、職場環境も意欲に大きく影響します。
自分の仕事がどのように評価されているのか、どこを改善すべきなのかが分からない状態では、努力の方向性を見失いやすくなります。結果として、「どうせやっても変わらない」という無力感につながります。
リモートワークの普及や業務の効率化により、日常的なコミュニケーションの機会が減少しています。上司との関係が形式的なものにとどまると、心理的な距離が広がり、相談や提案がしづらくなります。
評価基準が曖昧であったり、成果が正当に反映されていないと感じると、努力と報酬の結びつきが弱まり、意欲低下につながります。
こうした個人要因と職場要因が重なることで、社員は徐々に仕事への関与を下げていきます。その結果として現れるのが、「静かな退職」とも呼ばれる状態です。
実際、世界的な調査では、仕事に積極的に関与している従業員の割合は決して高くなく、多くの社員がエンゲージメント(会社や仕事への前向きな関与)の低い状態にあることが示されています(出典※2)。また、日本においても、若年層の退職には職場環境や成長機会への不満が関与していることが指摘されています(出典※3)。
意欲低下は、ある日突然起こるものではありません。多くの場合、日常の中の小さな変化として徐々に現れます。
これらの変化は、一見すると単なる「やる気の問題」として捉えられがちです。しかし実際には、ストレス反応やエンゲージメントの低下といった、心身の状態変化を反映している可能性があります。
職場におけるストレスは、必ずしも最初から明確な不調として現れるとは限りません。まずは上記のような行動や感情の変化として表出することが知られています。こうした早期の変化を捉えることが、メンタル不調の予防において極めて重要とされています(出典※4)。
また、エンゲージメント(会社や仕事への前向きな関与)が低下すると、発言や主体性の減少といった形で現れることが多く、これは組織全体の生産性にも影響を及ぼします。
重要なのは、欠勤や遅刻といった“わかりやすい問題”が出る前の段階こそが、最も重要な介入タイミングであるという点です。この「まだ問題化していない段階」で周囲が気づけるかどうかが、その後の深刻なメンタル不調や退職を防げるかを大きく左右します。
ここで取り上げている状態は、いわゆるうつ病などの明確なメンタル不調とは異なります。
うつ病では、抑うつ気分や興味・関心の喪失、強い疲労感などが持続し、日常生活や業務に明確な支障が生じます。こうした状態は診断基準に基づき評価され、医療的介入が必要となる段階です(出典※5)。
一方で、本記事で扱っているのは、そこまで明確な症状はないものの、意欲や仕事への関与(エンゲージメント)が低下している段階です。本人も「不調」とまでは認識していないケースが多く、周囲からも見過ごされやすいのが特徴です。
また、バーンアウト(燃え尽き症候群)は、過度な業務負荷や慢性的なストレスによりエネルギーが枯渇した状態を指し、情緒的消耗や仕事へのシニシズム(冷笑的態度)、達成感の低下といった特徴を持ちます(出典※6)。
ただし、静かな退職の段階では、そこまでの消耗に至っていないケースも多く、むしろ「関与を下げることでバランスを保っている状態」と捉えられることもあります。言い換えれば、この状態は「病気ではないが、放置すればメンタル不調に進行する可能性がある前駆段階」です。
厚生労働省の指針においても、メンタルヘルス対策は「一次予防(未然防止)」が重要とされており、明確な不調が生じる前の段階での気づきと対応が推奨されています(出典※7)。この段階で適切に関わることができれば、重症化の予防だけでなく、退職の回避やパフォーマンスの回復にもつながります。
出典※5:日本うつ病学会「うつ病治療ガイドライン」
この段階で重要なのは、「問題として扱いすぎないこと」と「関わりを途切れさせないこと」です。明確な不調ではないからこそ、過剰な介入ではなく、日常の延長線上での関わりが求められます。
違和感を覚えた時点で、早めに声をかけることが望ましいです。欠勤や業務支障といった“わかりやすい問題”が出るまで待つ必要はありません。メンタルヘルス対策においては、不調の未然防止(一次予防)が重要であるとされており、早期の気づきと対応が推奨されています(出典※8)。
何か困っていることはある?」といった直接的な問いかけは、本人に“問題がある前提”を感じさせてしまうことがあります。それよりも、
といった、負担の少ないオープンな問いかけの方が、本音を引き出しやすい傾向があります。日常的な会話の中で関係性を保つことが、結果的に早期介入につながります。
これらは一見ポジティブに見えますが、本人にとってはプレッシャーとなり、心理的距離をさらに広げてしまう可能性があります。
必要に応じて、産業医や社内外の相談窓口につなぐことも重要ですが、その前提として、日常的に安心して話せる関係性があるかどうかが大きく影響します。
こうした状態に対しては、本人側のセルフケアも重要な役割を果たします。
まず基本となるのは、生活リズムの安定です。特に睡眠は、意欲や集中力、感情の安定に密接に関係しており、睡眠の質が低下するとパフォーマンスにも影響が出やすくなります(出典※9)。
また、大きな成果や目標だけを追うのではなく、小さな達成感を積み重ねることも有効です。日々の業務の中で「できたこと」や「進んだこと」に意識を向けることで、仕事への関与感(エンゲージメント)が徐々に回復していきます。
さらに、ストレスや違和感を抱え込まず、信頼できる上司や同僚、家族などに共有することも重要です。言語化することで状況を整理できるだけでなく、周囲からのサポートにつながる可能性も高まります。
こうしたセルフケアは、特別な対策というよりも、日常の中で整えていく習慣として捉えることが大切です。
この状態を放置すると、企業にとっても無視できない影響が生じます。
出勤しているが健康問題や意欲低下によりパフォーマンスが低い状態を指します。表面的には見えにくいものの、長期的には大きな損失につながります。実際、生産性低下の多くは欠勤よりもプレゼンティズムによって生じるとされており、重要な経営課題の一つです(出典※10)。
最終的な退職に至った場合、採用や教育にかかるコストが再発生します。
低下した意欲は周囲の社員やチーム全体にも波及し、組織全体のパフォーマンスを押し下げます。
これらはいずれも特別な施策を新設するのではなく、既存の仕組みをどう運用するかの問題です。
形式的な進捗確認ではなく、日常的な関係性の質を高める場とすることで、早期の変化に気づく土台を作ります。
部下の小さな違和感を拾い上げる感度を高めます。
サーベイ等を通じて組織の温度感を定量的に把握します。
重要なのは、問題が顕在化してから対応するのではなく、初期段階で拾い上げる仕組みを持つことです。
メンタルヘルス対策は、「余裕があれば取り組むもの」ではありません。企業には、労働者の安全と健康に配慮する義務、いわゆる安全配慮義務が課されています。この義務は、明確な疾病への対応だけでなく、メンタル不調の予防や悪化防止も含まれると解釈されています。
さらに、ストレスチェック制度の導入により、企業は従業員のストレス状況を把握し、必要な対応を講じる体制を整えることが求められています(出典※11)。
ただし実務上は、「高ストレス者への対応」や「医療につなぐこと」に重点が置かれやすく、今回のような不調の前段階への対応は十分とは言えないケースも少なくありません。しかし、厚生労働省の指針では、メンタルヘルス対策は以下の三層で考えることが重要とされています(出典※12)。
つまり、不調になってから対応するのではなく、不調になる前に介入する(一次予防)ことが本来の姿です。この観点から見れば、「静かな退職」とも言える初期段階への対応は、単なる配慮ではなく、制度的にも求められる合理的かつ重要なリスクマネジメントと位置づけられます。
出典※11:厚生労働省「ストレスチェック制度実施マニュアル」
多くの場合、この段階は職場での関わりや環境調整によって改善が期待できます。一方で、次のような状態が見られる場合には、医療機関への相談も前向きに検討すべきです。
この段階では、内科や心療内科、精神科での評価が有効です。早めに専門家の視点を取り入れることで、状態の整理や適切な対処につながります。
重要なのは、「深刻になってから受診する」のではなく、「違和感の段階で相談する」という選択肢を持つことです。医療機関の受診は特別なことではなく、自身のコンディションを整えるための一つの手段と捉えることが大切です。
「静かな退職」は、決して怠慢や個人の性格の問題として片付けられるものではありません。多くの場合、個人と職場の関係性の中で生じる、自然な反応の一つです。そして、その変化は突然訪れるのではなく、日常の中の「小さな違和感」として現れます。
重要なのは、欠勤や不調といった「結果」だけを見るのではなく、その前段階にある「組織や個人の温度の変化」に気づくことです。
この段階で適切に関わることができれば、社員の回復だけでなく、組織全体の健全性や生産性の向上にもつながります。企業にとっても、働く個人にとっても、これは単なる「問題」ではなく、よりよい働き方や組織のあり方を見直す貴重な機会とも言えます。
小さな変化に目を向けること。それが、結果として大きな退職や深刻な不調を防ぐ、最も確実な第一歩になります。