
山梨大学 名誉教授
西久保 浩二
本年度末の3月26日に労働政策審議会が開催された。当審議会(労政審)は、日本の労働政策を決定するプロセスにおいて極めて重要な役割を担うもので、厚生労働大臣の諮問機関として位置づけられている。メンバーは三者構成原則として公・労・使から主要なメンバーが選出されている。
この審議会が開催されたわけだが、その分科会となる勤労者生活分科会も同時に開催され、議題として財形制度改正が取り上げられた。改正内容そのものは勤労者財産形成促進法施行規則の一部を改正しようとするもので、財形住宅貯蓄における住宅の取得又は増改築等に係る床面積要件について原則として床面積が50㎡以上である住宅を対象としてきたものを緩和措置として40㎡以上50㎡未満の住宅についても適用するという内容であった。近時の地価高騰、マンション価格高騰の状況を受けての措置とも考えられる。
この改正点については特に争点となるものではないため、スムーズに改正されると予想される。実質賃金が長く上昇せず、下降を続けた経緯を考えれば労働者の居住用の実部資産形成を促進するうえで必要な措置であり、遅きに失した感も否めない。ファイナンシャル・ウェルビーイングが叫ばれる昨今、金融資産と並んで、健全な実物資産形成の重要性が高まっているからである。
実は本コラムで注目したのは、この財形制度の改正ではない。この分科会において厚生労働省から提出された資料に掲載された下記の図表で示す法定外福利費の動きである。
法定外福利費に関するデータは近年、不足している。2019年度を最後に日本経団連が長年、そして毎年実施してきた「福利厚生費調査」が終了したことが最大の原因である。
現在、残された信頼性の高い調査としては「就労条件総合調査(厚生労働省)」しかない。しかし同調査で福利厚生費の詳細が調査対象となるのは5年に一度の間隔となっており、直近の状況がリアルタイムには把握することができない。
こうした点から今回、厚生労働省が帝国データバンク社のデータに基づいて提示された、この法定外福利費の動向に関するデータは貴重なものである。26日同日、日本経済新聞でも記事として報道されている*1。
そして同資料内では「法定福利費は、近年、増加傾向にある」「 財形貯蓄への奨励金等を含む法定外福利費は、2022年以降は増加に転じている」とのコメントが付記されている。
労働政策審議会勤労者生活分科会(第35回)資料
「財形制度をめぐる状況について」厚生労働省 雇用環境・均等局p21より抜粋
確かに、2021年から2025年にかけて法定外福利費の前年比が大きく変動している。コロナ禍で、マイナス8.8%と急激に落ち込んだ後に、2022-2023が+4.4%、2023-2024が+4.1%、そして2024-2025が+4.8%と大きな上昇が3年間続いており、これら通年(2021-2025)で約15%の増加となる。このデータは企業調査であるから一社当たりの法定外福利費総額の増加率となるわけである。一つの費目としては目立つ上昇といえよう。
周知のとおり、併記されている法定福利費、すなわち社会保険制度における事業主負担は賃金と連動した料率計算によって保険料が決まるため、名目的な賃上げが続いていることによって自然増額するが、法定外福利費は労使の任意の判断によって支出が決められる費用であることを勘案すると、何らかの理由、目的で支出増の決断がなされたということになる。
前置きが長くなってしまったが、本題はここからである。
なぜ、急に法定外福利費が上昇し始めたのだろうか。コロナ禍からの落ち込みからの自然回復というだけでは説明のつかない直近時の増加率であり、法定外福利費の水準値である。
もうひとつ同データソースでの詳細な分析をご紹介するが(下図)、従業員規模別にこの動きをみても若干の水準差はあるが同様の動きを示していることがわかる。従業員規模「1-5人」「6-20人」という中小零細企業と「1000人以上」という大企業層に分解してみても急激な回復と増加基調は顕著である。特に中小零細企業では対前年比が高くなっている。
筆者が推論するに、この答えは一つであろう。すなわち、近時の深刻な人材難、人手不足問題への対抗策として福利厚生を拡充しようとする動きが拡がり始めたという原因である。人手不足が大企業以上に深刻な中小零細企業層での対前年比が高いこともこの原因であることを裏付けているとも読み取れる。
人材難、人手不足とは二次元の問題である。「採用」と「定着」の二次元である。必要な採用ができなければ、採用数を確保できなれば人手不足解消の糸口はつかめない。しかし、仮に採用数が確保できたとしても、新入社員が次々と早期退職すれば、いわゆる“ザル採用”となって要員計画に支障をきたし、事業存続を揺るがす。採用と定着の双方が安定的に、バランスよく実現できなければ人材難から逃れることはできない。二次元一体として対応する必要に迫られるわけである。採用と定着への同時的な改善・向上効果という点で、福利厚生は活用の幅が広いともいえるだろう。確かに、労働市場にある応募者が魅力を感じる「福利厚生の充実」という状況は、社内にいる従業員達にも有難い存在となり、離職を躊躇させるのは当然といえば当然である。
福利厚生は採用力向上に寄与するだけでなく、既存従業員の定着性の維持・向上にも有効な施策であることは、これまで内外の数多くの実証研究によって既に検証されている。理論的にもSide-bet理論、社会的交換理論、組織コミットメント理論、負債感理論など数多く、色々な角度からの解説も加えられてきた。
こうした福利厚生のもつ経営的効果、すなわち「採用」と「定着」の双方での同時的な改善、強化を期待して法定外福利費の支出を増加させているのではなかろうか。
法定外福利費のこの動きに、上記以外にもさらに追加的な原因として考えられる点についても触れておこう。1つはやはり、人的資本経営という新しい発想が広がりつつある点ではないかとも想像できる。人件費というヒトに関わる必要な「費用」という発想から、収益性を高め付加価値生産性を高め、企業価値を高めるための「投資」としてヒトに関わる支出を捉えようという古くて新しい発想である。この「投資」として福利厚生は採用、定着だけではなくエンゲイジメントの改善、向上にも寄与できることから投資を拡大させようとする動きが企業において拡がっても不思議はない。
ただし、現況、この人的資本経営が上場企業に対してのみある種の強制力を伴った要請となっていることからすると、先の法定外福利費の動きの全てを説明できるものではなかろう。もちろん、中小零細企業にとってもこのヒトに対する「投資」という発想は今後、重要となってくることは間違いないのだが、まだその動きは拡がっているとは言えまい。
さらに、あえてもう一つ原因というか、現象としてあげるとすれば「賃上げ」の波及効果である。
実は「賃金」と「法定外福利費」とはきわめて連動性が高い。しかも正の連動性である。次図に示す通り、現金給与と法定外福利費の対前年比の推移を長期的にみると、極めて高い相関値を示している。景気上昇期には両者ともに増加し、景気後退期には現象するという動きを何ども繰り返してきたのである。両費用ともに景気敏感的に反応してきたわけである。故に最近の賃上げ基調を投影して法定外福利費も当然、上昇するというメカニズムである。
ただし、この関係性については一部反論もある。それは、本来、厳格な総額人件費管理が求められるなかで、原資一定と考えれば「賃上げ」のしわ寄せとして法定外福利費が圧縮されてしかるべし、という意見である。かつては「賃金か、福利厚生か」という二者択一論があったことも事実ではある。
しかし、データは正直なもので両者はトレードオフ関係ではなく、正に連動している。やはり第一の原因の話に戻ってしまうが、賃上げの時期には過去も、現在も人手不足、売り手優位の労働市場であることが大半で、人材を求め、それを確保するためには「賃金も、福利厚生も」という流れになるのであろう。
特に中小零細企業のように賃上げでは、財政的にもなかなか大企業との競争が難しい状況においては、働きやすさや両立支援など「なんとか福利厚生でアピールを」と考えるのは当然であろう。先の図で中小零細企業の法定外福利費の対前年比が大企業層よりも高くなっていたのはそういった戦略の現れではなかろうか、とも想像されるのである。
ともあれ、日本企業が賃上げだけに固執せず、福利厚生の充実にも乗り出そうとされていることは労使双方にとって良き流れできなかろかと思う。物価対策といった短期的な対症療法として賃上げだけを考えるのではなく、職場環境を整え、ウェルビーイング向上をもたらし、その過程のなかで中長期的に労働生産性を高めるためにも福利厚生を大いに活用していただきたいものである。
<引用文献>
*1 日本経済新聞社 記事
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA265J50W6A320C2000000/