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人的資本時代にこそ活かせ、福利厚生の有効性

福利厚生コラム11月

山梨大学 名誉教授
西久保 浩二

改めて、人的資本経営とは何か。それが人事・労務管理の世界に何を求め、何をもたらすものなのか。そして、福利厚生には何が期待されてくるのだろうか。

筆者は、全く新たな視点が加わったものと理解している。

 

その視点とは「市場」である。正確には「資本市場」と呼ぶべきであろう。

つまり、人的資本経営の時代を迎えたことによってそれまでは労働者であり、生活者である「個人」、そして企業という「組織」という二次元で構成されていた世界に新たな視点、評価軸となる「市場」が加わることとなったわけである。

 

これからは人事・労務管理の最適解、目標設定を三次元で捉えることが求められるようになった。この背景には、「市場」が決定権をもつ企業価値のものが、少なくとも上場企業にとって経営上、最も重視される目的概念となったからであろう。世界企業価値ランキングが注目を集め、メディアで頻出する時代なのである。これは不可逆的な流れとみるべきである。

そして「市場」は「個人」や「組織」とは異なる価値観を有する存在であるため、これまでの人事・労務管理のあり方に発想の転換、再構築を迫ることとなった。

 

では、その価値観とは何か。それは個人が、そして組織が、いかに市場の評価に足る付加価値を産み出せたか、そして将来的に産み出し続けられるか、という価値基準に尽きる。あえて、わかりやすく表現するならば、どんなビジネス、BtoCであれ、BtoBであれ、「利益を創出できる商品・サービスを製造・販売し続けられるか」という事である。

 

これまで「組織」が追求してきた生存と成長、つまり売上や資産がどれだけ伸びても、従業員数がいくら増えようが、それだけでは市場からの評価には値しない。また「個人」が求めてきた雇用、そして生活の安定も同様である。

 

かつてバブル崩壊の当初、経営危機に直面した老舗大手百貨店が創業以来初めて雇用リストラを発表したときに、株価は一時ストップ高となったことがある。それは、日本企業がようやく「市場志向」の経営に変ったか、との期待感の現れである。また、近時、大手流通グループへの代表取締役の続投に反対した米国ファンドが求めたのは成熟した百貨店、スーパーマーケット事業の切り離しであった。

「市場」は冷徹であって容赦ない。雇用であれ、祖業であれ、企業価値の向上に寄与しない事業の排除を求めてくる。

 

ただし、こうした組織としての成長や、個人の幸福、安心が、やがて企業としての価値創造に結実するプロセスであると確認できれば、「市場」は高い評価を下す。つまり、人的資本への投資とは、その先にある、リターン(投資による効果)として最終的に企業価値に高められるか、という明確な文脈が求められることになる。

 

福利厚生はこの大きな変化のなかで、今後いかにあるべきなのだろうか。

筆者は福利厚生はこうした「市場」が望む人的資本投資、持続的に価値を産み出すための人材マネジメントにおいて独自の可能性、有効性を有していると考えている。つまり福利厚生による投資による経営的効果の多くの媒介変数、KPIとなって企業価値の向上とその維持に確実に寄与できると確信している。

 

それはなぜか。端的に言えば、人間だけが担うことができる価値創造、その原点には「和気藹々」「自由闊達」「楽しさ」、これらが満ちた職場、そして個々の従業員が心身ともに健康で、安心感をもって過ごす生活、この両面が確保されることが欠かせないからである。

 

今日的な用語でいえば、その一端を表現すれば「心理的安全性」「ウェルビーイング」などとなるのであろうか。一方で、官僚的で、凍り付いたような、閉塞した、互いに足を引っ張りあうようなギスギスした職場から消費者を、顧客をワクワクさせるような魅力的、革新的な製品は生まれない。と筆者は確信する。

 

かつて、Sony(1946年、当時: 東京通信工業)はその設立趣意書の第一の項目のなかで「 真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」と記している。自由で、愉快、和気藹々とした職場こそが人々を魅了するものを創り出し続けることができることを同社は我々に証明したではないか。

 

福利厚生は職場における良好な人間関係、活発なコミュニケーション、帰属感、安心感などの形成を直接的に促進させることができる唯一の制度領域である。福利厚生は企業が従業員に提供する賃金、退職給付以外の支援サービスの総称だが、その領域は実に多岐にわたる。

住宅、給食、レジャー、リクリエーション、健康、両立(育児・介護)、慶弔・災害、衣服、自己啓発、情報提供、生活保障、資産形成などの幅広い領域があり、多種多様な制度・施策が提供される。まさにウェルビーイング全体を守備範囲とするといってよい。この制度・施策での「多様性」は、多様な人材に対する組織としての「受容力」を向上させる。グローバル時代を迎えているなかでライフスタイル、生活課題、生活習慣の異なる国内外の多様な人材を職場の仲間として受け容れる力となる。「多様な個の相互作用」が組織的な創造性を育み、イノベーション誘発の土壌となることは周知のとおりである。

 

また、育児、介護そして疾病との両立への支援は、直接的に労働生産性を左右することも明らかとなってきた。昨年、経済産業省が日本全体でのビジネスケアラー数(働きながら介護に関わる人)やその経済損失についての将来推計を公表した。2030年には9兆円をこえる経済損失が発生すると試算しているが、この損失はまさに企業価値を毀損するものに他ならない。

今年には同省は「仕事と介護の両立支援に関する経営者向けガイドライン」も発表し、経営課題としてこの問題に経営者自らが気付き、向き合う事を強く求めている。ビジネスケアラー300万人時代を迎える中で、労働生産性の低下、企業価値の毀損を食い止めるためにも福利厚生による両立支援は重要性を増している。

 

さらに近時、産官学で注目され始めたファイナンシャル・ウェルビーイングに対しても金融リテラシー向上、資産形成、生活設計などの面で福利厚生は直接的に貢献することが明らかとなってきた。これは人的資本経営において重視されるエンゲイジメント向上に寄与できる対応となる。自身の業務への「熱意」「没頭」、そして「活力」を維持し、向上させる上で、経済面での将来不安の解消が重要となっていると考えられる。

 

このように多様な人材を吸引する魅力的な職場づくり、創造性を如何なく発揮できる職場づくり、従業員の安心感の持てる生活形成に対して、福利厚生は直接的な支援策、セーフティネットとして、そして、職場での交流の演出装置などとして大いに機能を発揮できるのである。福利厚生は「個人」と「組織」を良好に融合させ、価値を創出する関係性を得るための結節点として、潤滑油として機能することで「市場」からの要請に応えなければならない今日の企業の大いなる助力となりうるであろう。

 

このような他の人事・労務施策には無いユニークな、独自の機能を活用することが人的資本経営時代の投資メニューの一つとしての福利厚生の有効性、そして存在意義が改めて見出されることを期待したい。改めて、投資としての福利厚生という視点から制度を見直されてはいかがだろうか。

 

この記事の講師

西久保 浩二

山梨大学 名誉教授

 一貫して福利厚生に取り組み、理論と実践の経験を活かした独自の視点で、福利厚生・社会保障問題に関する研究成果を発信している。

<公職 等>
「国家公務員の福利厚生のあり方に関する研究会」座長(総務省)
「国家公務員の宿舎のあり方に関する検討委員会(財務省)」委員
「PRE戦略会議委員(財務省)」委員
全国中小企業勤労者サービスセンター運営協議会委員
企業福祉共済総合研究所 理事(調査研究担当) 等を歴任。


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