山梨大学 生命環境学部 地域社会システム学科教授
西久保 浩二
最近、若手社員たちの一部で「ゆるブラック」あるいは「ぬるい職場」を逃げだそうという声が拡がっているようだ。ついこの間まで「ブラック企業」が喧伝されて、なんとかブラックを回避して、ホワイトで働きたいと大騒ぎしていたのに、早くもその反動ともいえる動きが現れている。いやはや、という感じでは、ある。
深刻な人手不足時代のなかで採用力を高めようとホワイト企業500選などができて、なんとかそれに選出されたいと頑張っていた企業にとっては、まさに、梯子を外された感もあるだろう。つまり「どっちやねん」と、ツッコミたくなるわけである。
古代からの、世界共通の慣用句ともいわれる「いやはや、近頃の若い奴はなんとも」、、、と嘆息される方も少なくないのではないだろうか。今回は、このあたりの右往左往の動きについて、近年の流れを一度、整理してみるのも悪くないのではなかろうか。
ではまず、黒い方から始めてみよう。
ブラック企業なる言葉が登場したのは2001年頃、ネット掲示板の“2ちゃんねる”の就職活動板という説が有力なようである(By wikipedia)。このブラック企業、日本の労働運動家で社会学者の今野晴貴氏の定義によれば「新興産業において若者を大量に採用し、過重労働・違法労働・パワーハラスメントによって使いつぶし、次々と離職に追い込む成長大企業」とされた。彼は、その後「ブラック企業 - 日本を食いつぶす妖怪 - (文春新書)」という凄いサブタイトルの本を出版することになる。妖怪とは、、、、
当時は、ネット上で「就職してはいけない企業ランキング」が大いに盛り上がっていたようである。また同時期に、誰もが知る某人気私立大学の就職支援課内で管理されていた、離職率が高く学生には勧められない企業リスト、いわゆるブラック・リストが関係者からネット上にリークされたようで、ここで“ブラック” という言葉が付着して完成されたと推測される。やはりネット時代なればこそ生み出された産物なのだね。
しかし、よく考えると、この時期のブラック的な企業は、筆者にはネットの無かった昭和の高度成長期には、ごく普通の企業であったようにも思われる。企業戦士、モーレツサラリーマン、さらには社畜などと呼称された当時の労働者たちは、長時間労働あたりまえ、サービス残業、ウェルカムという異常にテンションの高い働き方を嬉々として受け入れていた。
ハラスメントについても、今の基準でみると日常茶飯事といえたのではなかろうか。しかし、実はこの時期は、賃金水準も毎年、二桁成長していた時期でもある。ちなみに1973年度の日経連の「福利厚生費調査」では法定外福利費も対前年比で21.5%も急上昇している。同調査での現金給与も同じく21.9%という凄い伸びである。
労働者には厳しい時代ではあったが、豊かさの獲得を実感できていたわけである。もし、この調子でどんどん伸びていれば、今日、悲嘆されている日本人労働者の世界的低賃金という事態には陥らなかったのだろう。
さて、この長い歴史を持つともいえる、このブラック企業の流行現象はかなり長く続いてきた。ブラック企業を毎年大賞として表彰するようなシニカルなサイトなども現れて、すっかり定着した感であった。そして、コンビを組むことになったホワイト企業も遅ればせながら登場し、白黒揃った安定的な状態となったわけである。
ちなみに、ホワイト企業の方といえば、ブラックに対峙すべく良好なワークライフバランスを追求し、ハラスメント・トークを絶滅させ、両立支援策などにも最大限投資することになる。各社、“白さ”を競い合うことになったわけである。
もちろん、就活生の多くはホワイト企業に雪崩を打って集まるようになり、ホワイトを自認する企業は採用力を高められたことに安堵したわけである。
しかし、コロナ禍前後の頃からであろうか。あまりに行き過ぎたホワイト志向に対して、冒頭のように、一部の若手社員たちが不安を覚えるようになる。「こんなに優しくされていて、いいのだろうか」といった漠然とした不安、さらには「自分は成長できているのだろうか」と成長実感を持てなくなったのである。キャリア理論的には、自身の将来に向けたキャリア・ビジョンが描けなくなってきたものと考えられる。
懸命にホワイト化を進めてきた企業にとって寝耳に水、というか「それはないだろう、、、」という感じだろうか。
まぁ、こういう話をあちこちで耳にするようになってからは、なかなか気の毒な話、でも面白い話と傍観していたのだが、近時、突如として「人的資本経営」の話が登場して急速に拡がるなかで、筆者のなかで、なるほど!、と話がつながった。
つまり、人的資本経営とは文字通り、人的資本、人材への投資が求められ、その価値を高める企業こそが持続的に企業価値を維持、向上させることができるという話であるわけだが、意外と投資される側、つまり社員の側の話はあまり語られてこなかったように思う。
改めて、彼らの立場に立ってみたときに、「ゆるブラック企業」と自身の価値を高める投資をしてくれない、ただ優しいだけのゆるい企業となる。翻れば、まさに自身(人的資本)に的確に投資し、価値を高めてくれる企業を求めているという心理なのであろう。
ただし、この場合の社員たちが求める価値とは企業価値とは当然、異なるものとなる。恐らく、労働市場における価値、すなわち潜在賃金や転職能力(employability)などを高めることを期待していることになる。
ここが難しいところだろうが、ゆるブラック企業を逃げ出そうとしている社員たちの求める価値と、人的資本経営が目指している企業価値をいかに繋げて、ある種の価値連鎖構造をつくるが問われているのである。
しかし、ややこしい話になったようにも思える。
ホワイト企業たらんと、ワークライフバランスなどを追求し、福利厚生施策、両立支援施策なども拡充してきたことが、必ずしも社員たちから「投資されている」とは実感されていない、あるいは事実、そうなのかもしれないという話になった。
社員が働きやすいように、優しくすることと、投資する(される)ことの違いは何なのであろうか。悩ましいところである。表現が適切かどうか、難しいところだが、「アメとムチ」という言葉のように、一方で優しく、だが社員の成長に繋がる部分は厳しく、鍛えるというメリハリというか、硬軟、織交えた対応が必要なのであろう。まぁ、これも昭和の頃から言われてきたことなのだが。
この悩ましさが、今日の人的資本経営をいかに開示するか、何を開示するか、という上場企業につきつけられた課題ともいえるのだろう。
また、今後こうした成長実感を求めるような若者たちが増えてくると想定すれば、人的資本経営を推進することが、単に投資家たちを喜ばせるだけではなく、労働市場での採用力の強化にとも繋がる可能性が高い。投資によって、どれほど社員の価値を高めているか、という点が、ブラック回避・ホワイト志向に替わって新たな採用市場での競争の軸となってくるかもしれない。
西久保 浩二
山梨大学 生命環境学部 地域社会システム学科 教授
一貫して福利厚生に取り組み、理論と実践の経験を活かした独自の視点で、福利厚生・社会保障問題に関する研究成果を発信している。
<公職 等>
「国家公務員の福利厚生のあり方に関する研究会」座長(総務省)
「国家公務員の宿舎のあり方に関する検討委員会(財務省)」委員
「PRE戦略会議委員(財務省)」委員
全国中小企業勤労者サービスセンター運営協議会委員
企業福祉共済総合研究所 理事(調査研究担当) 等を歴任。
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