山梨大学 生命環境学部 地域社会システム学科教授
西久保 浩二
日本企業に賃上げを求める圧力が高まりつつある。
メディアが連日、わが国の賃金水準がいかに低水準か、といった国際比較グラフを露出するようになった。経済成長が低迷した、いわゆる「失われた30年」の仕業だとされている。この間には経済低迷とともに、女性、高齢者の雇用が拡大といった雇用構造の変化も賃金を押し下げたといわれている。
加えて、直近の背景としては急激な円安があって、主にドル圏、ユーロ圏の海外諸国での賃金の円換算値の名目賃金が爆上げした現象の影響も大きいだろう。これはグローバル市場での人材争奪戦に大きな影響を与えることにもなる。例えば、技能実習生のような最低賃金法以下のチープ・レイバーをいつまで得られることができるのか、一次産業にとっても深刻な問題に発展しかねない状況である。そして、ダメ押しとなったのが物価急騰の動きであり実質賃金を直撃した。
こうした背景、状況に、遅ればせながら政治が乗っかる形で、「賃上げ」が最重要の政策課題となってしまったようだ。
“賃金上げろ !” という声がここまで高まってくると経団連加盟企業のような大企業だけではなく、多くの中小・中堅企業にもプレッシャーとなってくることは間違いないだろう。もちろん、背景には生産年齢人口の縮小が始まっている中での労働需給の長期的なタイト感があり、コロナ禍騒動もどうやら収束の見通しとなれば、人手不足の深刻化も避けられないと予想されている。そうなれば、賃金上昇圧力がさらに高まることになる。
ともあれ、何らかの形態、方向、水準で名目賃金を切り上げようと日本企業の多くが動くと予測できるときに、福利厚生はどうなるか、どうすべきか、という点にも関心を持たざるを得ないわけである。
先日、ある大手企業から「rich compensation, lean benefit(報酬は厚く、福利厚生は薄く)」といった発想を経営者が唱えるなかで、福利厚生のあり方を問われる機会もあり、この問題? テーマについて少し考えてみることにする。
まず、改めて考えてみたいのは、賃金と福利厚生との関係性である。大きく捉えると両者は企業から従業員に対して提供される経済的報酬に含まれる同種の報酬である。ただし、同じ報酬であっても両者にはかなりの性格の違いがある。
まず形態が異なる。賃金は基本的に金銭的(現金、今後の電子マネーも含めて)である。そして、支払われた賃金の使用は従業員に全て委ねられる。つまり自由に使っていい。当然だろう、という声が聞こえてくるが、福利厚生にも多くの金銭的給付はあるが使途は決して自由ではないのである。
使途限定的・誘導的である。介護ヘルパー補助金、自己啓発支援、育児追加手当、結婚祝い金等々はいずれも賃金同様に金銭給付であるが、何かしらの使途が明記されている。そもそも、従業員側の支出先行で、後付けで補填するという支給形態が多い。そして、福利厚生には金銭給付でない現物給付が多い。
この点、賃金とは全く異なる。社員食堂、社宅・独身寮、スポーツ施設、休憩室といった「ハコもの」だけではなく、健康支援、ライフプラン・セミナー、介護支援(施設斡旋や情報提供)などといったサービス給付などもしかりである。企業が直接、現物を提供する。
形態よりも、さらに決定的な、もっと重要な違いがある。
それは、労働との対価性の違いである。この違いは近年、成果・能力主義が賃金側で浸透する過程で、さらに顕著になりつつある。すなわち、賃金が労働の質と量との関係性が明確に評価され、個々の従業員の賃金額が決定されるのに対して、福利厚生では勤続(在籍)は必要条件とはなるが、従業員当人の労働そのものの質および量が給付の条件となることはほぼない。
なぜなら、福利厚生が機会均等、弱者救済、負担者支援、平等主義といった給付論理によって提供しているからである。
さて、この他にも色々な差異はあるが、まずはこの二つの違いに着目して、賃上げのなかでの福利厚生の対応の可能性を推論してみようではないか。
先の「rich compensation, lean benefit」という発想の根底にはいくつかの前提となる重要な論理があると推測される。ひとつは総額人件費の適正化という、至極当然の論理である。賃金部分が膨張するならば、総体としての人件費を抑制するためには他の費目を縮小するしかない。
それが福利厚生費(法定外)なのか、退職給付費用なのか、あるいは報酬の枠を超えた教育訓練費などなのか、はともかくとして、である。つまり、総額人件費の適正化という観点で、Lean Benefitという発想は当然の反応といってよい。
もうひとつの隠れた論理は、経営的効果からみた際の「代償性」である。例えば、採用力で考えるとすると、賃上げで採用力が高まるならば、福利厚生を縮小することで生じる採用力の低下を「補える」とする論理である。このときに、賃金と福利厚生の間には代償性があるとみなされている。一方、代償性が無いと仮定すると、福利厚生の縮小による採用力の低下を賃上げで補うことはできず、絶対的な低下を余儀なくされる。つまり、Lean Benefitのリスクを甘受しなければならない、となる。
この「代償性」に関しては一定の法則はない。採用力に関していえば応募する人材の判断にゆだねられる。独身寮が無くとも、市中家賃を支払えるだけの賃上げ分があればよいと判断する者には代償性はあり、となる。しかし、社内保育施設が提供されなければ、賃上げや育児手当の現金給付があっても、待機児童の多い、容易に託児できないような地域に居住する従業員にとっては、代償性はない。出産・育児との両立が困難となり離職を余儀なくされることにもなる。
福利厚生には、先のように現物給付という賃金にはない形態をもつがゆえに「適時適所性」という強みがあって、従業員が必要する時間と空間に直接的に給付を行うことができて、従業員の問題解決に資する。古くは、明治初頭、群馬に創設された富岡製糸場で提供された「衣食住・医療」の現物サービス給付がなければ、全国から募集された工女たちの生活は立ち行かず、わが国の製紙産業の勃興も成しえなかったわけである。それらの現物サービスである福利厚生は賃金との代償性はなく、独立的な経営的効果(採用・定着)をもたらしていたわけである。
健康予防支援なども同様で、賃上げしたからといってその上昇分を健康維持のために従業員が支出するとは限らない。かえって深夜まで暴飲暴食する確率を高める危険性もある。となれば、健康支援と賃金には代償性がないどころか、逆効果の危険性も出でくるというわけである。
賃金と福利厚生の間には、こうした面白い(?)関係性があることを踏まえた上で、賃上げへの対応を考えることが賢明であろう。
実は、この話によく似た議論は90年代のバブル崩壊直後にもあった。いわゆる「福利厚生不要論」である。大手家電企業が、福利厚生適用外コースを作り、選択した従業員には相当額を賞与に上乗せ支給したのである。しかし、この制度も数年後には廃止となった。上記のような代償性の無い制度・施策での経営的効果の損失に気づいたためである。
賃上げによる安易な福利厚生のLean化のリスク面を承知する必要がある。
しかし、一方でこの賃上げ論の拡がりを福利厚生の抜本的な見直しの好機とすることはできるだろう。賃金との代償性をもつ施策は廃止・縮小を図りながら、福利厚生が独立的に経営的効果をもたらす施策には改めて注力すればよいのである。
さて、賃上げ論の結末はどうなることやら。
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