
合同会社メディカルシナジー代表/産業医・組織コーチ
川瀬 崇裕
データに基づいた判断、スピーディーな意思決定、ナレッジシェア――。ビジネスの現場では、かつてないほど「情報」が重視される時代になりました。特にここ数年は、SlackやMicrosoft Teamsなどのチャットツール、社内Wikiやマニュアル、そしてChatGPTをはじめとした生成AIの登場によって、情報にアクセスできる量もスピードも劇的に増加しています。一見、「情報が多いこと」は良いことのように思えます。
しかし、現場ではこうした声が上がります。
「毎日100通以上の通知が来る」
「必要な情報を探すだけで1日が終わる」
「AIで補足調査していたら、逆に混乱した」
「マニュアルが多すぎて、かえって読めない」
これらはすべて、“情報過多(Information Overload)”によるストレスの典型例です。
実際、情報やチャネルの増加が意思決定の遅延や注意負荷、主観的ストレスを増幅することが実証的に報告されています(Ohly et al., 2023)。
未来学者 Alvin Toffler(1970)はすでに50年以上前に「情報爆発社会」の到来を警告していましたが、それがまさに現実のものとなっています。
情報過多とは、処理できる容量を超えて情報が流入し、判断・記憶・行動に支障が出る状態を指します(Eppler & Mengis, 2004/Bawden & Robinson, 2009)。
人間の脳には、1日に処理できる情報量の限界があります。たとえば短期記憶(ワーキングメモリ)は概ね4±1チャンクという上限が示されており、それを超える入力が続くと処理効率や記憶の精度が低下します(Cowan, 2001)。
また、情報を得ることは容易になった一方で、「決められない」「覚えられない」「疲れている」という声が増えています。これは、情報量の増加が思考や記憶の機能そのものを摩耗させているためです(Bawden & Robinson, 2009)。
私が企業の産業医として関わる中でも、情報過多によるメンタル不調は確実に増えています。特に若手・ミドル層の相談にその傾向が顕著です。
30代の社員Aさんは、複数のプロジェクトを掛け持ちしながら、Slack・Teams・メール・社内SNSなど、1日200通近いメッセージに対応していました。
「大事なことを見落としたくない」という真面目さが、かえって自分を追い詰める結果に。読むべき情報の山に圧倒され、優先順位が曖昧になり、判断ミスや報告漏れが増加しました。やがて「自分は仕事が遅い」「周囲についていけない」と自己評価が下がり、集中力も続かなくなっていきました。
実際、通知や割り込みはタスク完了時間を平均で約2倍に増加させることが実験的に示されています(Stothart et al., 2015)。常時接続状態は、集中の断片化と慢性的な心理的疲労を引き起こすのです。
別の社員Bさんは、企画立案のためにChatGPTや検索ツールを多用していました。「もっと良い答えがあるはず」と深掘りを続け、気づけば数時間。
結論を出すどころか、「自分の意見がなくなっていく感じがして怖い」と語ってくれました。これはまさに、情報の波により自己を見失う現象です。選択肢が増えるほど“決められなくなる”という「選択のパラドックス」の影響も、このような状況で働きやすくなります(Scheibehenne et al., 2010)
人間の脳は、「選択肢が多すぎると決められなくなる」という性質を持っています。これは“選択のパラドックス”と呼ばれ、選択肢が増えるほど後悔や不安も増し、満足度が下がることが分かっています(Scheibehenne et al., 2010)。
また、Roy Baumeisterが提唱した「判断疲労(Decision Fatigue)」も重要な概念です。判断を繰り返すことで、意志力が消耗し、集中力・感情制御・記憶力が低下します。
さらに、John Swellerの「認知的負荷理論(Cognitive Load Theory)」によれば、情報が多すぎると脳がワーキングメモリを圧迫し、学習や問題解決能力が低下します(Cowan, 2001/Monsell, 2003)。
その結果、次のような“静かな不調”が現れます。
・集中力が続かない
・物忘れが増える
・判断が遅くなる
・イライラ感・落ち込みが強まる
・睡眠の質が低下し、慢性疲労が続く
これらはいずれも明確な病名がつかないものの、確実にパフォーマンスを蝕む「情報由来のストレス反応」です。
すべての情報を受け取る必要はありません。むしろ、「何を受け取らないか」を決めることが健全な思考の第一歩です。
・通知を切る・見る時間を決める:通知を受けるだけで注意資源が損なわれることが実証されています(Stothart et al., 2015/Ohly et al., 2023)。
・信頼できる情報源を3つ以内に絞る:情報チャネルを絞ることで、雑音を減らし選択を簡素化できます。
・「これは今の自分に必要か?」と問いを立てる:例えば「このチャネルの通知を今受けることでどんな判断が 変わるか?」と考えます。これは、Digital Minimalism(Newport, 2019)の思想にも通じます。
情報の“多さ”ではなく、“自分にとっての意味”を基準にします。AIの提案も検索結果も素材にすぎません。「自分はどう感じたか」「なぜそう考えるのか」といった内省のプロセスが、情報を「知恵」に変える鍵です。選択肢過多のメタ分析でも、量よりも文脈・目的・フィードバックが満足度に強く影響していることが示されています(Scheibehenne et al., 2010)。
常に情報に触れていると、脳は“思考の静けさ”を失います。
・1日10分スマホを見ない時間をつくる。
・散歩や日記など「出す行動」を意識する。
こうした時間は、脳の再整理に不可欠です。実際に、心が“今この瞬間”にないマインドワンダリング(mind wandering)が幸福感を低下させることが示されています(Killingsworth & Gilbert, 2010)。
・メール・メッセージのチェック頻度を下げることで、日常ストレスが有意に低下したという実証もあります(Kushlev & Dunn, 2015)。
情報は、私たちの創造性を刺激し、判断を支える大切な資源です。しかし、情報に流されるのではなく、自ら選び、整理し、意味づける力こそが、これからの時代に求められる“情報リテラシー”の本質でしょう。
働く人の心と体を守るために、「情報衛生(Information Hygiene)」という視点がますます重要になります。まずは、自分の“情報の許容量”を知り、必要な情報を自ら選び取る習慣を育てていきましょう。
そのためには、個人レベルでも組織レベルでも、「入力を制限し整理する仕組み」、「判断を促す“間”を設ける仕組み」、「通知やチャネルを設計・見直す仕組み」を作ることがカギです。情報に溺れず、うまく乗りこなしていくために今後重要となります。
<引用文献>